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疲れた…
2008-10-31 Fri 22:40
只今~、もうね…仕事し過ぎ。汗

約1時間前に帰宅しましたが、今日はさすがに疲れました。仕事中は携帯を観る暇さえありません…。


ネタ探しの旅は、本日お休みさせて下さい…申し訳ありません。
m(__)m





では、お休みなさい。
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伝説の名馬・ラフィアン
2008-10-30 Thu 22:34
2夜連続でお送りします。笑


さて今回は伝説…というよりも「悲劇」の名馬というタイトルが適切かもしれませんが、圧倒的な強さで勝ち続けたラフィアンです。

彼女自身、己のスピードに体がついてこれず…そして悲劇は起こった!あのサイレンススズカとダブる感覚ですね。全米の競馬関係者、誰もが認めた彼女の強さをご覧下さい。



ラフィアン(Ruffian)
アメリカ合衆国の競走馬。デビューから圧倒的な強さを見せ続けて10連勝でニューヨーク牝馬三冠に輝いたが直後のマッチレースで故障、予後不良となった悲劇の名牝。馬名は「悪漢」「ならず者」の意。半兄にワイルドアゲインやクレヴァートリックの父として知られるアイスカペイド、半弟にバックファインダーがいる。


戦績
1974年の2歳時は5戦5勝。2歳5月のデビュー戦(ダート5.5ハロン)を1分3秒、2着に15馬身差をつけて圧勝すると、続く4戦も圧勝。その後骨折で休養を余儀なくされるが、2着につけた差は合計で45馬身3/4で文句なく同年のエクリプス賞最優秀2歳牝馬に選ばれた。

1975年の3歳時は6戦5勝。当時のニューヨーク牝馬三冠であるエイコーンステークス、マザーグースステークス、コーチングクラブアメリカンオークスをいずれも楽勝するなど5連勝した。しかし、その2週間後にベルモントパーク競馬場で行われたその年のケンタッキーダービー馬のフーリッシュプレジャーとのマッチレースで右前脚両種子骨粉砕骨折を発症して競走中止。手術が行われ一度は成功したものの、麻酔が切れて暴れた際に負った傷が致命傷となり、安楽死処分となった。墓はベルモントパーク競馬場の中に建てられている。同年のエクリプス賞最優秀3歳牝馬に選ばれた。

なお、このマッチレース以後、アメリカではマッチレースは開催されていない。

競馬雑誌ブラッド・ホースが選定した20世紀のアメリカ名馬100選の35位にランキングされた。これは牝馬では1位である。


主な勝ち鞍
エイコーンステークス(G1)
マザーグースステークス(G1)
コーチングクラブアメリカンオークス(G1)
ソロリティステークス(G1)
スピナウェイステークス(G1)

ラフィアンの悲劇
ラフィアンの父、母も2年後に同じ悲劇に遭っている。母Shenanigansは、1977年5月21日に疝痛の手術の後暴れた際に骨折、安楽死処分に、父Reviewerもその数日後に放牧中に骨折、手術そのものは成功したが、やはり同じようにその後暴れて骨折、同年7月21日に安楽死処分となった。

また、血統的には直接関係はないが、その強さにラフィアンの再来と言われたゴーフォーワンドも1990年のブリーダーズカップ・ディスタフで故障、予後不良となっている。奇しくもこの年のブリーダーズカップはラフィアン最後の競走となったベルモントパーク競馬場で開催されていた。



※フリー百科辞典参照

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伝説の名馬・シンボリルドルフ
2008-10-29 Wed 22:36
こんばんは~、相変わらずスタホっていません。笑

完全に週1プレイヤーと化していますが…申し訳ない。汗汗


さて今回の伝説の名馬は…きました!シンボリルドルフです。

初の無敗で三冠達成、そして七冠馬…常に正攻法でレースを進み、他馬を寄せ付けない安定した強さは圧巻ですよね。派手な勝ち方は無いものの、まるで計算尽くしたかのような見事な完勝劇はサラブレッドではない…何か別次元の生き物のような錯覚を起こします。

今尚、日本競馬史において「最強」と謳われている彼の活躍をご覧下さい☆



シンボリルドルフ(Symboli Rudolf)
日本競馬史上4頭目のクラシック三冠馬であり、また初めて無敗でクラシック三冠を達成した。馬名は神聖ローマ帝国の皇帝ルドルフ1世にちなんで名づけられた。名前の由来から「皇帝」と称される、または「七冠馬」と称される。1987年顕彰馬に選出された。


出自
父パーソロンはリーディングサイアーに2度なった名種牡馬。母スイートルナはシンボリ牧場が生産した名馬スピードシンボリの産駒。スイートルナは初仔としてパーソロンとの間にシンボリフレンドを輩出する。シンボリフレンドは気性が悪く、京王杯スプリングハンデキャップを勝ったとはいえ期待以上の活躍ができなかった。その後も父パーソロン・母スイートルナの産駒は2頭生まれたが、やはり気性難で大成できなかった。それでもシンボリ牧場の和田共弘はまたスイートルナにパーソロンを交配し、その結果1981年にスイートルナの4番目の産駒として生まれたのがシンボリルドルフだった。額に三日月に似た形がついているという特徴を持ち、誕生から立ち上がるまでにかかる時間がわずか20分だったという。牧場にいるころは「ルナ」と呼ばれていた。


競走馬時代
3歳※(旧馬齢表記)
1983年7月23日新潟の新馬戦でデビューし、優勝した。このときのレース振りについて岡部は「1000mで1600mの競馬を覚えさせた」と述べた。なお、このようなレースをしたのはオーナーの和田の指示であり、このころからすでにルドルフに大きな期待がかかっていたことを伺い知ることができる。

新馬戦の後シンボリ牧場で調整されたシンボリルドルフは10月上旬に美浦トレーニングセンターへ戻り、10月29日のいちょう特別を優勝した。野平はこのときの岡部の騎乗を見て「1600mのレースで2400mの競馬をした」と語っている。

3走目には朝日杯3歳ステークスではなく11月27日の一般オープン競走が選択され、優勝した。


3歳時のローテーションについて
当時は期待の大きい馬が夏にデビューする場合、北海道で行われるレースに出走するのが一般的であった。そのため新潟でデビューしたシンボリルドルフは、デビュー当初はそれほど期待されていなかったのだという説がある。これに対して野平は美浦トレーニングセンターと北海道を往復することによってかかる負担を避けたかったことと、芝のレースでデビューさせたかった。ことから新潟のレースに出走させることを決定したとしている。

朝日杯3歳ステークス不出走について
シンボリルドルフは関東の3歳チャンピオン決定戦であった朝日杯3歳ステークスに出走せず、11月27日の一般オープン競走に出走した。野平によるとこれは同日に開催されたジャパンカップに来場する海外の競馬関係者に、日本にもこんな凄い馬がいるということを見せてやろうとのオーナーの考えに基づくものであった。


4歳※
1984年、4歳緒戦として弥生賞に出走。このレースはシンボリルドルフにとって3ヶ月ぶりとなり、18kg増の馬体重で出走した。このレースではそれまで岡部が主戦騎手を務め4連勝中であったビゼンニシキが1番人気となったがこれを1馬身3/4差で破った。

皐月賞では弥生賞から22kg減の馬体重となった。前走時の外傷によって休んだ後、運動の遅れを取り戻すために行った強めの調教が原因だった。再び2強対決となり、2頭に人気が集中しそうだったため2頭とも単枠指定とされた。今度はシンボリルドルフが1番人気となった。シンボリルドルフは道中3番手で競馬を進め、4コーナーでは先頭になった。直線に入るとビゼンニシキと一騎打ちになり、シンボリルドルフは外側を走るビゼンニシキと激しくぶつかり合い、外に斜行している。しかし最後はビゼンニシキを1馬身1/4抑えてレースレコードで一冠達成。ただし、この斜行で岡部騎手は2日間の騎乗停止処分を受けている。もし当時降着制度が設けられていたなら着順が繰り下げられていたかもしれない。表彰式で三冠を意識して岡部が一冠を示す1本指を指し示した(このパフォーマンスは後にディープインパクトに騎乗した武豊も行った)。

東京優駿(日本ダービー)はビゼンニシキとの「SBダービー」と呼ばれた。この2頭の連勝複式馬券は銀行馬券と思われ、今も投票額最高記録を維持している。しかし単勝では1.3倍とシンボリルドルフの圧倒的1番人気だった。また、回避馬が続出し、当時の戦後最少頭数となる21頭でのレースとなった。レースではスズマッハが逃げる展開となった。シンボリルドルフが向こう正面で岡部のゴーサインに反応しなかった為に競馬場は騒然となったが、直線に入ると自らハミをとり3頭併せで先を行くスズマッハ・フジノフウウン・スズパレードを差し切り二冠達成。この出来事から岡部は「ルドルフに競馬を教えてもらった」と語っている。無敗での二冠制覇はトキノミノル、コダマ以来3頭目の快挙だった。なおビゼンニシキは14着と沈んだ。ここでも岡部は表彰式で二冠を示す2本指を立てた。

秋緒戦、すっかりリフレッシュしたシンボリルドルフはセントライト記念をレコードタイムで優勝。そして、三冠最後の菊花賞に挑む。道中は馬群の中団に位置し、3コーナーではやや前の馬が壁になったものの、最後の直線で抜け出すと外から襲い掛かってきたゴールドウエイを3/4馬身退け優勝。日本の中央競馬史上初の無敗でのクラシック三冠を達成する。表彰式では岡部が三冠を示す3本指を立てた。そして、3000mの菊花賞後、中1週でジャパンカップへと駒を進めた。

前走で天皇賞(秋)を制した前年の三冠馬ミスターシービーも出走し、史上初の三冠馬同士の対戦となったジャパンカップだったが、シンボリルドルフは下痢をするなど体調不良が大きく報道され、生涯最低の4番人気となった。1番人気はミスターシービーだった。しかし、レースは10番人気と前走の天皇賞(秋)から大きく人気を落としていた宝塚記念馬カツラギエースが逃げ切り勝ちを収め、史上初の日本馬のジャパンカップ優勝馬となった。シンボリルドルフはミスターシービー(10着)にこそ先着するものの、イギリスから参戦したベッドタイムにも及ばず3着と敗れ、連勝記録は8でストップした。

初の敗戦後に迎えた有馬記念は、ファン投票こそミスターシービーに次ぐ2位だったものの、単勝1.7倍の1番人気に支持される。岡部は、前走カツラギエースにノーマークで逃げ切られた反省から、カツラギエースをマークする競馬に徹した。最後の直線で先頭に立つと、粘るカツラギエースに2馬身差をつけてレコードタイムで優勝。中央競馬史上初の4歳四冠を達成した。表彰式で岡部は4本指を立てた。この年7戦6勝3着1回で年度代表馬に選出された。


5歳※
1985年緒戦の日経賞は単勝オッズが100円元返しであった。レースでは逃げる馬がいないので押し出される形で先頭に立ったが、4馬身差で勝つ。岡部は手綱を持ったままであった。次走の天皇賞(春)はミスターシービーがいつもと違って先行策に出たが、結局2馬身1/2差で快勝。2着にも同じパーソロン産駒のサクラガイセンが入り、ミスターシービーは5着に敗れた。表彰式で岡部は5本指を立てた。その後、同年の東京優駿優勝馬であるシリウスシンボリと共にキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスへの海外遠征が予定された。

海外遠征を控え、資金稼ぎと一部の風評があった宝塚記念に出馬投票を行ったが、レース前日の土曜日の段階で左肩跛行により出走を取り消した。これは、シンボリルドルフが阪神競馬場の杜撰な芝の張替えによって芝がはがれてダートがむき出しになった部分であわや落馬かという転倒をしたことが原因である。この事に「コースの管理もできないような所は二度と走らせん」とオーナーの和田が激昂し、ニュースなどでも取り上げられた。ただし出走を取り消す前に、体調不良を察した野平と、あくまで出走させようとするシンボリ牧場場長の桐澤との間で意見が対立し、和田が妥協して出走を取り消すという経緯があった。結局この故障によってシンボリルドルフの海外遠征は取りやめとなり、シリウスシンボリのみ渡欧した。

故障後、天皇賞(秋)にはぶっつけ本番で挑んだ。ここでも1番人気に支持されたが、久しぶりだった上に、当時は不利とされていた東京2000mコースの大外17番枠からの発走だった。さらにこのレースはハイペースとなった。それでもニホンピロウイナーやウインザーノットらを競り落とすも、ゴール前で13番人気の伏兵ギャロップダイナの大外強襲の前に1/2馬身差の2着に屈した。天皇賞(秋)敗退後、馬房の中でシンボリルドルフが悔し涙にくれたという話が報道された。

前年に負けたジャパンカップは悪天候の重馬場での競走であったが無難にこなし、ジャパンカップ史上初の1番人気での優勝馬となった。2着にも地方競馬代表のロツキータイガー(大井競馬所属)が入り、同じく史上初となる日本馬のワンツーフィニッシュとなった。表彰式で岡部は六冠を示すために手を手綱から離し、指を1本置いた。

シンボリルドルフには再び海外遠征が計画され、有馬記念は日本国内でのラストランとなった。このレースを前に調教師の野平は強い勝ち方をするよう岡部に指示をした。レースでは、直線半ばでムチを2発入れて追い出しを開始すると、同年の皐月賞、菊花賞の二冠を制したミホシンザン以下を4馬身突き放し優勝した。フジテレビの盛山毅アナウンサーの実況「世界のシンボリルドルフやはり強い、日本のミホシンザンを離す」は名文句となった。この勝利により、スピードシンボリ以来となる連覇を達成した。ここでは岡部は七冠を示すパフォーマンスを見せなかった。この年5戦4勝2着1回で、満票で2年連続の年度代表馬に選出された。年度代表馬を満票で受賞したのはテンポイント(1977年)、シンボリルドルフ、テイエムオペラオー(2000年)の3頭である。


6歳※
1986年、この年シンボリルドルフは海外遠征に旅立つことになるが、和田と野平の計画は微妙に異なるものであった。和田はまず春にアメリカ遠征に行き、それから秋にヨーロッパ遠征に行くという考えだったが、それに対して野平の計画は、春に休養させてから秋にヨーロッパ遠征に行くというものだった。この点をめぐって和田と野平の間に確執が起こり、結局和田の計画が実行されるが、調教から何からを現地のスタッフに任せる事態となった。シンボリルドルフはまずサンタアニタ競馬場のサンルイレイステークス(GI)に出走し、次にサンファンカピストラーノハンデキャップに出走する予定だった。しかし迎えたサンルイレイステークスではDahar(ダハール)の6着に敗れた。コースの特徴でもあるダートコースを横切る場所で左前脚繋靭帯炎を発症したことが敗戦の理由とされ、その日のテレビではNHKをはじめ各局がニュースなどでシンボリルドルフの故障、敗戦を報じた。

そして帰国後、海外再挑戦が検討されるも最終的には引退となり、12月7日には中山競馬場で引退式が行われた。シンボリルドルフは「7」の番号と王冠のマークが描かれたゼッケンをつけて姿を現した。このゼッケンは七冠をイメージしたものだった。


シンボリルドルフ




※フリー百科辞典参照


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