☆ビッグ☆
http://staho2big.blog115.fc2.com/
World Wide Weblog
スポンサーサイト
-------- -- --:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

別窓 | スポンサー広告 | top↑
伝説の名馬・ニジンスキー
2008-09-18 Thu 16:56
今日は…自宅でマッタリです。何なんでしょう、先週とは全く違う日々。笑

とりあえずちょっと我慢ですね、はい。





さて、本日は「伝説の名馬」をお届けします、今回はニジンスキー。

日本から見て結構馴染みのある名馬でしょうか…大種牡馬ノーザンダンサーの直仔であり「スーパーカー」と言われたマルゼンスキーの父ですから。

彼の戦績をご存じだと思いますが、素晴らしい実績と時代に翻弄された結末…どうぞ、ご覧ください♪




名前の由来はロシアの伝説的なバレエダンサーであるヴァーツラフ・ニジンスキーから。


■出自
ニジンスキーは1967年の2月21日にカナダのウインドフィールズ牧場で生まれた。生産者のエドワード・プランケット・テイラーは大種牡馬ノーザンダンサーを生産し名を馳せていた。ニジンスキーの父はそのノーザンダンサーで、ニジンスキーは2世代目の産駒となる。小型馬が多いノーザンダンサー産駒にもかかわらず、ニジンスキーは体高が170 cmを軽く超える大型馬であった。母フレーミングページはカナダのダービーにあたるクイーンズプレートを勝ち、アメリカのケンタッキーオークスでも2着に入った名牝。ニジンスキーを含めて3頭の仔がいた。半姉フルール(父ヴィクトリアパーク)は現役時代に3勝し、母としてエプソムダービーなどを勝ったザミンストレルを産んだ。全弟ミンスキーはアイルランドの2歳チャンピオンとなった。後に日本に種牡馬として輸入されている。

ニジンスキーは素晴らしい馬体に成長し、アイルランドからウインドフィールズ牧場を訪れていた調教師のヴィンセント・オブライエンの目にとまることとなる。オブライエンはもともと宝石商のチャールズ・W・エンゲルハードに頼まれてリボーの産駒を見にこの牧場を訪れていたのだが、お目当てだったそのリボー産駒よりもニジンスキーに目を奪われてしまったのである[2]。そして、カナダのブリーダーセリにて8万4000カナダドルというカナダ史上最高価格でオブライエンに購入された。その後ニジンスキーはエンゲルハードの所有となった。


■2歳時
アイルランドに渡ったニジンスキーは、1969年7月にカラ競馬場のアーンステークスでデビューした。リーム・ウォード騎乗でこのレースを1/2馬身差で勝つと、続くレイルウェイステークスでは翌年のアイリッシュ2000ギニー馬デシースに5馬身差で圧勝している。3戦目のアングルシーステークスも快勝し、4戦目のベレスフォードステークスでは再びデシースに勝っている。さらにイギリスに渡り、2歳最強馬を決めるデューハーストステークスに初めて名騎手レスター・ピゴットとのコンビで挑むとこれに楽勝した。アイルランドとイギリスの両方で2歳チャンピオンとなり、5戦5勝で2歳を終える。ちなみにこの後ニジンスキーの主戦騎手はアイルランドではウォード、それ以外の国ではピゴットが務めた。


■3歳時
翌1970年、ニジンスキーはグラッドネスステークスで復帰した。初の古馬との対戦となり、さらに馬場状態も悪い中で、ニジンスキーは5馬身差で楽勝する。2着は前年のアイリッシュセントレジャー2着のディープランだった。そしてイギリスのクラシック一冠目の2000ギニーに出走する。ニジンスキーは直線でイエローゴッドを突き放し、2 1/2馬身差をつけて圧勝する。

続く二冠目エプソムダービーは11頭立てという例年よりも少ない頭数だった。それでも、シーバードの仔で、フランスの名調教師エティエンヌ・ポレが引退を延期したほどの素質馬であるジルが出走しており、この他にもスティンティノ・アプロヴァルといった馬も注目され、強いメンバーが出走してきた。また、2000ギニーの勝ちっぷりや、父のノーザンダンサーが12ハロンで行われたベルモントステークスで3着だったことからニジンスキーのスタミナ不安説も流れた。そのため、ニジンスキーは1番人気だったものの倍率は2.4倍で、この馬にしては高かった。ニジンスキーの単勝オッズが2倍以上となったのはこの時だけである。だがレースでは、中団につけたニジンスキーが直線では先に先頭に立ったジルを交わし2 1/2馬身差で楽勝した。このときのタイムはマームードに続く当時歴代2位の好タイムだった。

この後アイリッシュダービーもエプソムダービーでも負かしたメドウヴィルに3馬身差で勝った。次のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスはニジンスキー以外がすべて古馬というメンバーだったが、直線で追いすがる前年のエプソムダービー優勝馬ブレイクニーを突き放して2馬身差で快勝する。無敗でエプソムダービー・アイリッシュダービー・キングジョージの3つのレースを制したのはニジンスキーが初めてだった。キングジョージの後には、544万ドルでアメリカのクレイボーンファームによるシンジケートが結成された。これは凱旋門賞馬ヴェイグリーノーブルの500万ドルを抜く当時の史上最高価格だった。

夏にウイルス性の感染病によって発疹が出るというアクシデントに襲われたものの、ニジンスキーはクラシック三冠が懸かったセントレジャーステークスに出走した。この時代には長距離レースの価値が下がり、それに伴いセントレジャーの権威も落ちていたので、ニジンスキー陣営はセントレジャー出走に積極的ではなかったが、ドンカスター競馬場などイギリスの競馬関係者の熱烈なキャンペーンの甲斐もあり、結局陣営は出走することに決めた。そしてレースはニジンスキーがメドウヴィルに1馬身差で完勝し、バーラム以来35年ぶり15頭目のイギリスクラシック三冠馬となった。無敗での達成はオーモンド、アイシングラス、バーラム以来史上4頭目の快挙だった。しかしニジンスキーはレース後、体重が31ポンドも減ってしまっていた。

そして迎えた凱旋門賞。ニジンスキーは単勝1.4倍と断然の1番人気となっていた。このレースのパドックでファンがニジンスキーの周りに殺到したため、ニジンスキーは動揺してしまう。それでもレースではいつものように後方につけると、最後の直線で先頭を走るその年のジョッケクルブ賞優勝馬ササフラを交わし、一時は勝利寸前かと思われた。だが、騎手のピゴットは手ごたえの悪さを感じており、ニジンスキーに鞭を使ってしまう。すると今までレース中に鞭が振るわれたことはないニジンスキーは左によれてしまい、この隙を突かれて再びササフラに抜かれてアタマ差の2着となり、生涯初めての敗戦を喫した。レース後に敗因としてセントレジャーの長距離を走ったことによる疲労によるものという説が流れたため、凱旋門賞を狙う有力馬はセントレジャーに出なくなってしまい、より一層レースのレベル低下が進んだ。そしてニジンスキー以降、イギリスに三冠馬は誕生していない。そのほかの敗因としてはピゴットに騎乗ミスがあったとする見解や、すでにこの時には競走馬としてのピークが過ぎていたとする見解があった。

続くチャンピオンステークスでも1 1/2馬身差でロレンザッチョの2着に敗れた。この時ニジンスキーは発汗がひどく、それが敗因に挙がったが、凱旋門賞の敗戦後も言われていたように、もう全盛期ではないという意見もあった。そしてニジンスキーはこのレースを最後に引退した。


230px-NijinskyII.jpg





※フリー百科辞典参照


別窓 | 未分類 | コメント:0 | top↑
<<今日明日と…ヤだなぁ | ビッグのスタホ日記 | 足がきてます>>
この記事のコメント
コメントの投稿
 

管理者だけに閲覧
 

| ビッグのスタホ日記 |
copyright © 2006 ビッグのスタホ日記 all rights reserved. powered by FC2ブログ. template by [ALT DESIGN].
/
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。