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伝説の名馬・セントサイモン
2008-10-07 Tue 23:43
皆さん、こんばんは~☆

今回は「セントサイモン」を紹介します。伝説の名馬シリーズの時はスタホをしていないと思った方が…。笑



さて、セントサイモンですが…彼程、現役としても種牡馬としても大成功をしたサラブレットはいないでしょう。競争戦績は完璧で全てが圧勝!種牡馬では…20世紀の大種牡馬は「ノーザンダンサー」なら、19世紀の大種牡馬は「セントサイモン」と語り継がれる程、彼の血は全世界に広がっていきました。間違いなく彼の功績は「伝説の中の伝説」です!!では、彼の活躍をお楽しみ下さい☆




セントサイモンあるいはサンシモン(St. Simon)
19世紀末に活躍したイギリスの競走馬である。以後のサラブレッドに絶大な影響を残した馬で、史上最も偉大なサラブレッド種牡馬と言われることもある。異名は「煮えたぎる蒸気機関車」

馬名について
馬名はバッチャーニが傾倒していたフランスの社会主義思想家・アンリ・ド・サン=シモンが由来。当時は英語でも「サンシモン」と呼ばれていた。しかしアメリカ英語の影響を受けた現在、イギリスでも「セントサイモン」と訛り、それに従い日本でも「セントサイモン」と呼称される場合が多い、近年元の呼称に従い「サンシモン」と表記する場合も増えている。


出生
セントサイモンは、1881年にイギリス・東部イングランド・サフォーク州にあるニューマーケットの近くでセントアンジェラの8番目の仔として生まれた。父はエプソムダービー馬ガロピン。生産者はハンガリーの貴族バッチャーニ・グスターヴである。彼は1838年にイギリスに帰化した後、1843年には自分の牧場を開いた。1859年にはジョッキークラブの一員となり、1875年にはガロピン(Galopin)でエプソムダービーを制したが、この頃から心臓を患うようになっていた。

バッチャーニのお気に入りだった父ガロピンは、負ける姿を見させたくないという側近の配慮によりその年限りで引退し、翌年からウィリアム・バローズの牧場で種牡馬生活へと入っている。だが、血統の悪さや、気性難で知られていたブラックロック(Black Rock)のインブリードを持っていたことにより全く人気がなく、初年度100ギニーだった種付け料が翌年からは50ギニーへと下げられている。交配相手も年に10数頭と少なく、しかもバッチャーニの所有馬ばかりという有様であった。

そんな中、バッチャーニよってセントサイモンの母セントアンジェラ(St. Angela)はガロピンと何度か交配された。1879年にはアンジェリカ(Angelica)が生まれ、セントアンジェラが16歳となる1881年にはセントサイモンが生まれている。

セントサイモンが仔馬の頃どのような馬であったかについては殆ど伝えられていない。僅かにドーソンが「厩舎に来たばかりのころはまるで牛のように鈍重で、兎のような動きをする目立たない馬だった」と述べている。


2歳(デビューまで)
2歳になるとバッチャーニが傾倒していたフランスの社会主義思想家「アンリ・ド・サン=シモン」から名前をもらい「セントサイモン」と名付けられた。だがその年の5月、生産者そして当時の馬主であるバッチャーニが、自身の持ち馬ガリアードが優勝した2000ギニーの僅か30分前に心臓麻痺で急死する。そのためセントサイモンを含むバッチャーニの持ち馬は7月のジュライセールに上場された。このセールには4年前にポートランド公爵とその財産・牧場を相続したウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクと、その持ち馬を管理していた調教師マシュー・ドーソンがフルメンという名の馬を手に入れるために訪れており、その馬が高くて買えなかったため何か気になるところのあった隣の馬房のセントサイモンを1600ギニーの手ごろな価格で競り落とした。

1600ギニーと手ごろな値段になった理由として、成長後で体高(肩までの高さ)16.1ハンド(約164cm)の雄大な馬格を誇っていたものの、胴が詰まりのろのろと歩くその様は見栄えのいいものではなかったこと、血統の悪さ、さらに既にクラシック登録(正確にはバッチャーニの方針により元々2000ギニーにしか登録がなかった)、及びフュチュリティ等の主要2歳戦の登録が締め切られ、その登録が馬主死亡のため無効(1928年にこの規則は廃止)になり出走権が失われたこと等が災いした。また、バッチャーニの元でセントサイモンを管理していたジョン・ドーソン(マシュー・ドーソンの兄)がこの馬を手放したくなかったためわざと太らせた上で汚くして見栄えを悪くしていたという話もある。このセールでは父ガロピンが8000ギニーでヘンリー・チャップリンに売却され、母セントアンジェラが320ギニーでレオポルド・ド・ロスチャイルドに売却されフランスに渡っている。


2歳時
7月中にはドーソンのヒースハウス(ニューマーケット)へと移り調教を受け始めた。最初の頃はさえない動きしか見せなかったが、徐々に能力の片鱗を見せ始め、7月31日にグッドウッド競馬場のハイネイカーステークスでデビューすると、フランスの実績馬リシェリュー(Richelieu)を6馬身差で下し初戦を楽に逃げ切った。登録後に勝利したため翌日の未勝利戦では60.3kgのハンデをペナルティとして課せられるが、危なげなく勝った。続くデヴォンシャーナーサリーステークス、プリンスオブウェールズナーサリーステークスも楽勝し、この時翌年2000ギニーで2着になるセントメダル(St. Medard)を下している。さらに、当時セントサイモンと同じ厩舎にいたビジイボディ(Busybody、翌年の二冠牝馬、同年の2歳チャンピオン)、ハーヴェスター(Harvester、翌年のエプソムダービー勝ち馬)と走らせてみたところセントサイモンはこれらを全く相手にしなかった。

10月には出走できるレースがないのでセントサイモンと同期で既にリッチモンドステークス等に勝ち頭角を現していたデュークオブリッチモンド(Duke of Richmond)との500ギニーを賭けたマッチレースが行われた。この時にデュークオブリッチモンドを管理していた調教師ジョン・ポーターは、セントサイモンの様な血統も悪く実績も無い馬と対等に扱われたことが気に入らなかったらしく、「スタートしたらすぐに飛び出して、あの乞食野郎の喉を掻き切ってしまえ!」と言い、さらにドーソンも「奴らにその台詞をそのままお返ししてやれ」と怒鳴った。レースはセントサイモンの一方的な展開になり、スタート後瞬く間に差を広げると2ハロン(約400 m)通過時点で20馬身(約50 m)もの差をつけた。主戦騎手を務めるフレッド・アーチャーはその時点で手綱を引き、対戦相手に実力差を見せつける様にデュークオブリッチモンドが追いつくのを待ってから正確に3/4馬身差を保ちつつゴールした。レース後にドーソンは「セントサイモンは私が調教した最強の2歳馬だ、おそらく史上最高の競走馬になるはずだ」とコメントしている。


3歳時
翌3歳になると、クラシックには出走できなかったためセントサイモンは古馬に挑んでいる。まず、当時イギリスで大レースを勝ちまくり、最強とされていたトリスタン(Tristan)とのマッチレース(無賞金の非公式戦、ペースメーカーが各1頭)が組まれ、これを易々と下した。次に出走したアスコットゴールドカップ(Ascot Gold Cup、芝20ハロン)はこの時代イギリスで権威の高い競走であったが、セントサイモンは破天荒なレースぶりで圧勝している。この時は体重調整がうまくいかなかったためアーチャーは乗れず、代わりにアーチャーには及ばないものの、この年のエプソムダービーでハーヴェスターを勝利に導いた名手チャールズ・ウッドが騎乗していた。スタート直後は後方を進んでいたものの、残り6ハロンで手綱を緩めるとよほどストレスがたまっていたのか制御が不可能になり、全馬一気に抜き去るとそのまま前年の勝ち馬トリスタンに20馬身の大差をつけて勝利した。さらに、セントサイモンはゴール後も騎手の制止命令を振り切り暴走を初め、1マイルも疾走し続けた。

また、アスコットゴールドカップに次いで当時権威のあったグッドウッドカップ(Goodwood Cup、芝20ハロン)でも、前年のセントレジャーステークス馬オシアン(Ossian)を相手に20馬身差で勝利している。このレースを最後に引退、奇しくもデビュー戦と同じ7月31日であり、僅か1年の現役生活に終止符を打った。


引退後
引退後は1年の休養をはさんで1886年から種牡馬生活を開始した。急に環境を変えないよう配慮されたため、まずはニューマーケットにあるドーソンのヒースファームで供用され、翌年からはポートランド公のウェルベックアベースタッドに移った。

その後は毎日元気に運動をこなし、種牡馬としての仕事もこなしていたが、1908年4月2日彼の朝の運動のすぐ後に、心臓発作で倒れ死亡した。27歳であった。

骨格はロンドン自然史博物館、蹄はジョッキークラブとヨーク競馬博物館にひと組ずつ展示されている。墓標はウェルベックアベースタッドにある。

その他、イギリスのニューベリー競馬場では、秋にセントサイモンを記念するセントサイモンステークス(芝12f5y)が行われている。


種牡馬成績
種牡馬となったセントサイモンは初め50ギニーの種付け料で供用され、翌年100ギニーに引き上げられた。初年度の産駒が2歳になった1889年に種牡馬ランキング3位につけると、翌年はメモワール、セモリナの2頭がクラシック競走を制し、2世代のみでリーディングサイアーの座に着いた。1892年にはラフレッシュが牝馬三冠を制覇し、その後もパーシモン、セントフラスキン等の活躍により7年連続リーディングを維持した。1897-1899年の3年間は2位(1位ケンダル)、5位(1位ガロピン)、3位(1位オーム)と低迷するも、1900年と1901年には再びリーディングを奪取した。この間種付け料も徐々に上がり、1899年に500ギニー、1901年には600ギニーすら付けた。ポートランド公がセントサイモンから得た収入は24万ポンドを超えたとされている。

1901年の種付け料600ギニーは前年の活躍による。この年は勝利数こそ27勝と低調に終わったが、史上唯一の五大クラシック全勝、その他の主要3歳戦であるプリンスオブウェールズステークス、ニューマーケットステークス、コロネーションステークスをも勝利し、ダービーの2着もセントサイモン産駒だった。加えて古馬の高賞金レースエクリプスステークスまでも獲得し、この年の産駒獲得賞金総額は58,625ポンドに達した。

産駒には、能力の高さ(ステークス優勝馬:25%)に加え、気性難も伝えた。ダイヤモンドジュビリーは三冠を制した名馬だったが、世話をする者の手をかみちぎる等手に負えず、騎乗できる者は限られていた。また、セントサイモンは鹿毛遺伝子をホモ(EE, AA)で持っていたようで、産駒は1頭の芦毛馬(ポステュマス Posthumus)を除いて全て鹿毛か黒鹿毛であった。なおセントサイモンの父ガロピンもホモ鹿毛で、気性難、多汗癖を持っていた事で知られている。


直系子孫の急激な拡大
セントサイモンの種牡馬成績は20歳に達した1901年頃を境に下降線を辿り始める、1902年には息子パーシモンがセプター等の活躍によりリーディングサイアーになるとセントサイモンは2位に落ち、二度とリーディングを取ることはなかった。しかしセントサイモンに代わって産駒が種牡馬として活躍する様になり、パーシモンの他にもセントフラスキン、デスモンド等数多の後継種牡馬が登場した。イギリスでは1888年 - 1913年の26年間にガロピン系だけで19回種牡馬リーディング1位を取っている。1901年にはガロピンとセントサイモンの直系子孫で4勝、1902年にも直孫で独占し、1912年の種牡馬リーディングでは首位パーシモンを筆頭としてデスモンド、セントフラスキン、チョーサー、ウィリアムザサードの5頭が7位までにひしめいた。この頃イギリス国内で行われる重賞勝ち馬の半分までをセントサイモン系が占めるまでになったという。「セントサイモン系でなければサラブレッドではない」という言葉も使われるようになった。


セントサイモンの悲劇
しかし、この繁栄は長くは続かず1910年代半ばには衰退を始めた。1908年から1914年にかけ有力な種牡馬が相次いで死亡、その上残った種牡馬も輸出されたり失敗したりで活躍馬を出せなくなり、牡馬のクラシックホースは1914年のエプソムダービー優勝馬ダーバー(Durbar、フランス産)を最後に、イギリスチャンピオンサイアーは1913年のデスモンドを最後に獲得することができなくなってしまった。やがてイギリス国内でセントサイモン系とそのあおりを受けた父ガロピンの父系自体が姿を消した。さらにはオーストラリア、南アメリカに広がっていたセントサイモン系も同様に滅亡した。隆盛を極めたセントサイモンの父系があまりに短期間のうちに消滅してしまったために「セントサイモンの悲劇」と呼ばれている。

この現象はサラブレッド血統史上しばしば見られることで、ハイフライヤー(Highflyer)やテディ(Teddy)、そして後世のノーザンダンサー(Northern Dancer)における父系発展の阻害も同様の現象とされる。正確な原理は議論があるが、ある種牡馬の血が交配可能な牝馬の大半に行き渡ると、その種牡馬の系統に属する種牡馬は近親交配を避けるために満足な交配機会を得られず、その結果急に勢力を減じるというのが一般的な説である。


その後のセントサイモン系
セントサイモン系はイギリス内では完全に途絶えてしまったため、その後は輸出された馬の子孫によって主にフランス、イタリア、ロシアで展開した。これらの一部は後に勢力を増し、1938年にはついにボワルセル(Bois Roussel、フランス生まれ)がセントサイモン系として25年ぶりにエプソムダービーに優勝した。これ以降イタリアからリボー(Ribot)、フランスからは他にマシーン(Machine)、ワイルドリスク(Wild Risk)、プリンスローズ(Princequillo、ベルギー調教馬)等が出て1960,70年代には第二の隆盛期を迎えたが、2007年現在ノーザンダンサー系やミスタープロスペクター系の勢力拡大の影響もあり一時期程の勢いはなくなっている。


セントサイモン


※フリー百科辞典参照

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この記事のコメント
#1488 素晴らしい
私も革命の使者的大種牡馬が大好きなんです(笑)

特に今回のセントサイモンは大のお気に入りです。

次はハイペリオンお願いします(笑)

あ~次が楽しみです(笑)
2008-10-08 Wed 17:50 | URL | れお #-[ 内容変更] | top↑
#1492
れおさん>
こんばんは~☆

まさか、こちらにも来て下さるとは…恐縮です。笑

ハイペリオンですか…彼もまさしく伝説の名馬ですよね♪

一応、当ブログでの「伝説の名馬」紹介はスタホに所縁のあるサラブレッドのみを紹介しているんですよ。

でも、希望があれば紹介しましょう!別バージョンとして紹介しますね♪

ではでは。
2008-10-08 Wed 21:58 | URL | ビッグ #-[ 内容変更] | top↑
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