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伝説の名馬・マルゼンスキー
2008-10-25 Sat 22:03
昨日はどうも失礼しました。笑

記事をカキコした後、見事にプチ説教を食らいました。爆

ええ、今日は大丈夫!普段は穏和なんですけど、さすがに昨日は…そんな感じです。汗


さて、話は変わりまして…今回の伝説の名馬は「マルゼンスキー」です。

「スーパーカー」の愛称で競馬ファンに愛された彼。当時、持ち込み馬はクラシックに出走できず…しかも生まれながらにして脚部不安を抱えたまま競争生活を過ごし、最終的にはビッグタイトルを獲得できないまま引退した生涯無敗の名馬です。

彼に纏わるエピソードは数知れず、彼の存在自体が当時の日本競馬に多大なる影響を及ぼした事は間違いありません…必見です。



マルゼンスキー(1974年 - 1997年)
ずば抜けた能力等から「超特急」や持込馬と言う事から「スーパーカー」との愛称で競馬ファンから呼ばれた。


出自
母シルはイギリスクラシック三冠馬ニジンスキーの子供を腹に宿した状態で、アメリカのキーンランドセールで購買され、輸入された。そして日本で生まれたのがマルゼンスキーである。いわゆる持込馬であった。

生産者は早来のマルゼン橋本牧場の橋本善吉で、馬主でもある。スピードスケート及び自転車競技の元オリンピック代表選手で参議院議員の橋本聖子はその娘。橋本善吉は『牛のハシモト』として海外でもその名が広く知れ渡った名うての牛の仲買商であるが、幼少時から馬の生産を夢見ていた事もあり、海外まで牛を買いに行った際に馬を購入してくる事がままあった。その代表的な成功例がマルゼンスキーの母親であるシルと、同時期(1974年)に日本に輸入したばんえい競馬の名種牡馬マルゼンストロングホース(ベルジャン種)とされる。

橋本がシルを購入した経緯は様々な偶然に満ちていた。そもそもこのセリの開催時に橋本がアメリカにいた理由は『キャンセル料が馬鹿にならない海外研修旅行の欠員穴埋めのために、そこにすぐに参加できる橋本が呼ばれた』ことであった。そのため、研修の内容も目的地への移動の最中で知ったと言うドタバタ状態での参加であった。このようにして参加した研修旅行で、後にマルゼンスキーを預ける事になる本郷重彦調教師と運命的出会いをする。

直ちに意気投合した橋本と本郷は連れ立って、サラブレッド種のセリのなかでももっとも有名なもののひとつであるキーンランドセールを見学。そこで偶然目に止まった繁殖牝馬がいた。一見した限り大した馬には見えなかったが、牛仲買商として培ってきた動物を見る目とカンを信じて橋本は購入を決意する。この牝馬こそがシルであった。シルが名種牡馬バックパサーと全米牝馬チャンピオンクィルの間の仔であり、しかも三冠馬ニジンスキーの仔を受胎していることは、その後カタログを見て知ったという。このような背景からセリの値はどんどん競り上がったが、橋本はシルの落札に見事成功した。もっとも、あくまで本業は牛仲買商である橋本によるこの良血牝馬の落札劇は、他の牛畜産関係者から見ればある意味では常識外れの大暴挙で、日米の同業者たちにたちまち知れ渡り、仲間内どころか、取引のある米国の畜産業界の関係者にすら『牛のハシモトが馬の競売で発狂したらしい』という噂が立った程であった。

また、社台グループ総帥の吉田善哉もシルのセリに参加していたが値段が予想より上がった為に早々と降りており、「シルを競り落とせなかった」ことを後悔していたという。その後、吉田は個人的興味から橋本牧場へマルゼンスキーを見に行き、脚が外向していることを差し引いてもなお素晴らしい馬体をしていた事に、更に後悔を深めたと言われている。


現役時代

快進撃
1976年に購入時の縁から東京競馬場の本郷重彦厩舎に入厩。買い手がつかず橋本自身が馬主となる原因となった外向を抱えていた上、本郷は購入の経緯を知っている事もあり、故障発症を考え思う様な調教が出来ず六分程度の仕上がりで緒戦を迎えた。だが、その不安はあっさりと消し飛んだ。何とデビュー戦でタイプアイバー等を相手に大差勝ちしたのである。続くいちょう特別も完璧とは程遠い仕上がりで9馬身差圧勝。しかし、3戦目の府中3歳ステークスは将来を考え、中団に抑える競馬を試みたがよもやの裏目、一瞬前に出たヒシスピードを辛くも差し返し3連勝を飾ったものの唯一のハナ差という屈辱的苦戦を味わう。そして大一番の朝日杯3歳ステークスは、前走の鬱憤を晴らすべく生涯唯一の80%程度の仕上げで出走。レースはほぼ馬なりで1600mを1分34秒4というタイムで走破し、着差は2着ヒシスピード鞍上の小島太に『バケモノだ』と言わしめた程の13馬身差の圧勝(いわゆる大差勝ち)の上に、本気で追っていたら後2秒は速いタイムを出せたと言わしめる程の内容であった。この2歳レコードタイムは、14年後の1990年にリンドシェーバーに破られるまで君臨した。

明けて1977年、4歳の初戦も2馬身半差をつけて勝利した。その後は骨にヒビが入り、休養を余儀なくされるも、その休み明け初戦も7馬身差。余りの強さに他の調教師が恐れをなしてか、マルゼンスキーの出走予定レースは登録が少なく、常に成立が危ぶまれていた程である。4歳の初戦も、不成立になったら朝日杯の優勝レイをかけ、パドックでファンにお披露目するプランさえ真剣に考えられていたという。幸い、服部正利が自身の管理馬からリキタイコー他1頭を出走させ、何とかレースを成立させたと言われている。


持込馬としての不運
しかし、持込馬であるマルゼンスキーには当時の外国産馬と同様に東京優駿(日本ダービー)を初めとするクラシックへの出走資格がなかったのである。これ以前には持込馬の出走が認められており、また、1984年に再びこの規制は解除されたのだが、ちょうどこの馬の時代(1971年の活馬輸入自由化以降)には内国産馬の保護政策による規制が行われていた。なお、規制解除後、1992年桜花賞のニシノフラワーが、持込馬によるクラシック制覇を達成しているが、過去には1957年ヒカルメイジが東京優駿に、1970年にはジュピックが優駿牝馬(オークス)に優勝するなど、持込馬のクラシックホースが存在していた。

東京優駿の前、主戦騎手の中野渡清一(現・調教師)は、『28頭立ての大外枠でもいい。賞金なんか貰わなくていい。他の馬の邪魔もしない。この馬の力を試したいからマルゼンスキーに日本ダービーを走らせてくれ』と語った有名な逸話がある。しかし、東京優駿への出走は叶わなかった。

他方、マルゼンスキー不在の3歳クラシック路線は、皐月賞を前にして早くも『敗者復活戦』と蔑まれる有様であり、前年のトウショウボーイとテンポイントを中心軸に繰り広げられた激しい東西対決と比較すれば、なおさらに興味を殺がれるものとなった。その様な状況では当然として馬券の売上にも少なからぬ悪影響を及ぼすこととなった。

次に出走したのは日本短波賞で、2着となった後の菊花賞優勝馬プレストウコウに7馬身差をつけて優勝。しかもハロン棒をゴール板と勘違いしてペースを落としたものの、それに気付いて再加速をしたマルゼンスキーは直線だけで7馬身突き放すという驚異的な内容であった。 返し馬の時、鞍上の中野渡騎手が雨で4コーナーの内馬場が荒れているのをチェックするために止まったことをマルゼンスキーが本番でも覚えていてスピードを緩めた、という逸話もある。

猛暑を避けるように札幌競馬場へと移動したマルゼンスキーは、札幌競馬場の短距離ステークス(ダート1200m)を1分10秒1のレコードで2着ヒシスピードに10馬身差で優勝。この当時、同じく札幌に来ていた1歳上のトウショウボーイとの対戦が噂されるようになったが、実現はしなかった。

その後、巴賞→京都大賞典(どちらもを持込馬の出走が可能)の出走を予定し、年末の有馬記念を目標に調教されていたが、ここにきて先天的な脚部の外向を原因とした屈腱炎を発症し、前記2レースを回避。一時はダービー卿チャレンジトロフィー(当時は秋の開催。1977年度は11月20日に開催)を叩いて有馬記念に出走するプランもあったが、最終的には落馬負傷した中野渡に代わって跨った加賀武見を背に調教中に不安が決定的なものとなり、引退に追い込まれる。この年の有馬記念はテンポイントとトウショウボーイのマッチレースとして有名になったレースだが、このレースへの出走は叶わなかった。

同世代のダービー馬であるラッキールーラなどは、マルゼンスキーとの対戦がなかったために、対戦のあった馬(ヒシスピード・プレストウコウ等)を使った机上の比較から競走馬としての評価を極めて低く貶められることとなった。それが祟って後に種牡馬としては良質な牝馬を集められずに失敗・韓国に輸出される原因の1つにもなっている。また、皐月賞馬ハードバージもやはり種牡馬としては成功できずに乗馬となり、最後には観光施設でショーや馬車に用いられる使役馬となり斃死する末路を辿るなどしたため、後に競馬マスコミがこの世代を総括する際、マルゼンスキーがクラシックに出走できなかった事も含めて、『マルゼンスキーの影に泣かされた悲運の世代』として語られることとなった。


現役引退後
昭和53(1978)年1月15日、引退式がおこなわれ種牡馬入りした。なお、この引退式では当時としては珍しく、「さようなら、マルゼンスキー。語り継ごう、おまえの強さを」と書かれた横断幕を出したファンがいたなど、当馬の人気が偲ばれる。

マルゼンスキーは、種牡馬として、初年度産駒のホリスキーが1982年の菊花賞を、サクラチヨノオーが1988年の東京優駿を、レオダーバンが1991年の菊花賞を制して、自身は出走することすらかなわなかったクラシック競走に勝利した。その他にも宝塚記念を勝ったスズカコバン、ダート戦線で活躍したカリブソングらを輩出。しかし、社台自慢の種牡馬・ノーザンテーストが君臨していた事もありリーディングサイアーは取れず、生産者の橋本は「マルゼンスキーがノーザンテーストの交配相手と同じ質の牝馬さえ集められれば」と悔しがったという。トウショウボーイとは対照的に牡馬やステイヤーの活躍馬が多かった。また母の父としても、ウイニングチケット、ライスシャワー、スペシャルウィークなどを輩出した。ブルードメアサイアーとして1995年から2003年まで9年連続2位、2004年3位、2005年4位となっている。1990年には顕彰馬に選ばれた。

1997年8月21日に心臓麻痺により死去。後日営まれた葬儀には母シルも参列した。現在、故郷である北海道安平町の橋本牧場に墓がある。死亡から7年後の2004年7月、JRAゴールデンジュビリーキャンペーンの名馬メモリアル競走の1つとして「マルゼンスキーメモリアル」が福島競馬場芝1800m行われた。この日はかつて優勝したラジオたんぱ賞の施行日で準メイン競走として行われた。

現在、子のサクラチヨノオーやスズカコバン、孫のネーハイシーザーなどの種牡馬引退により、現役時代に実績のあったマルゼンスキーの主な後継種牡馬はすべて生産界からは退いておりチクシダイオスキーを残すのみとなっている。



※フリー百科辞典参照

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